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Essays No. 2

40代の半ばに屋久島に登りました。これは屋久杉に続く山道です。屋久島の雄大な大自然は僕のちっぽけな悩みを吹き飛ばしてくれました。

 

            皆さん、はじめまして

                       by 前平謙二

                     

 

 

広島の地に「西日本医学英語勉強会」が生まれたのはとても意義深いと感じています。九州、四国、中国、関西の翻訳家のネットワークが構築されていきます。このまま西日本の全ての医療系翻訳家を取り込めたらいいなぁと思っています。

さて、貝原さんの後をうけてエッセイを書くことになりました。やはり自分と英語との関わりを書くのがふさわしいと思い、少し書いてみます。とはいってもI’ve come a long way! 何から書いていいものやら・・・。

 

20歳代半ば、この先30年以上も会社勤めをしなければならないのかと思うと非常に暗澹たる気持ちになっていた頃、翻訳学校に通い始めました。翻訳家は大学時代から憧れを感じていた職業でした。当時、映画字幕翻訳家の戸田奈津子さんや同時通訳の鳥飼久美子さんが華々しくご活躍中でした。しかし当時は『能力』とか『天賦の才』とかを信じていた頃でしたので自分にはなれないと諦めていました。ベートーベンもレオナルドダビンチも生まれつきの天才かと思っていました。とはいえ、自分が本当に進みたい道を諦めきれずに「とりあえず」翻訳学校に通ってみることにしました。

出会った先生方が本当に素晴らしかったです。菊池光先生とお弟子さんの奥村S子先生にミステリー翻訳の手ほどきを受けました。菊池先生の口癖は『なんで諦めるんだろうねぇ。諦めなきゃ(翻訳家に)なれるのに』でした。「翻訳の才能」を信じていた当時の僕には先生の言葉はあまり説得力がありませんでした。数年通った後に、雲上人の先生方の翻訳力と自分とのあまりにも大きいギャップにやはり「才能がない」と諦め、翻訳学校は卒業しました。その後外資系に転職し、そこで英語に日常的に接することができたので少しずつ英語の力は伸びていきました。またNHKの『やさしいビジネス英語』(=やさビジ)を1987年の開講からずっと学んでいるのも役に立ちました。

 

外資系勤めはそれなりに面白かったです。『やさビジ』のスキットがそのまま再現されているようなリアルさを感じられる毎日でした。でも翻訳家への思いを完全に断ち切ることは出来ず、40歳を過ぎた頃、『50歳代で翻訳家』という目標を設定しました。とはいえ翻訳家に成れるあてなど全くありません。何回翻訳コンテストを受けても不合格、不合格、また不合格・・・。何回出版社に売り込んでも返事無し・・・。なかなかきっかけを掴めないままグズグズしていました。そんなフン切りの悪い僕の姿は会社に見透かされたのでしょうか、外資系には付き物のリストラに巻き込まれました。しかしこれはきっと『天のお導き』だと良い方に解釈し、『えいっやっ』の勢いで翻訳の道に進みました。といっても仕事があるわけではありません・・・。薬大で教授を務める友人の投稿論文作成を手伝ったのがきっかけで医学論文翻訳の道に進むことになりました。その後実に様々なチャレンジがあり(今も継続中ですが・・・)現在に至っています。

 

先日、『やさビジ』の講師の杉田敏先生のお話を聴く機会に恵まれました。テーマは『雑談力』でした。『コミュニケーション能力=雑談力』で、英会話力はこの『雑談力』がないと伸びないという趣旨の講演でした。いつものように一番前の席に座り集中して講義に臨みました。当日は雑談の練習もあり、また言葉のキャッチボールのコツも教わりました。『やさビジ』は学び始めたこころはチンプンカンプンでしたが今では完全に聞き取れます。やはり何事も『継続は力なり』です。『やさビジ』のテキストには古今東西の名言が毎回紹介されます。この30年間に何度も紹介され僕の一番好きな名言を皆さんにも紹介して、次の方へバトンをお渡ししたいと思います。

 

“Never, never, never, never give up.” (Sir Winston Churchill)

 

 

                                 

 

西日本医学英語勉強会
West-Japan Medical English Workshop

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